2008年05月29日
遍路を終えて
昨年十二月半ばから、五回に区切って歩いた四国八十八ヶ所。
日数にしてみれば約二ヶ月間。雨で歩かなかったり、行き帰りの日も含めたためこれだけの日数を要したのであった。
遍路を始めた理由は、ただ「なんとなく」というだけのもの。
特に何かを見つけようとか、修行をしようとしたわけではない。
ただ、四国を旅するときには「お遍路さん」という体系化された旅を実際に体験してみたかったというだけである。
遍路中は精進をしていたが、これは各札所で読経もするため、私なりの信仰における足かせとでも言うべきか。今までもよくしていたことなので、特に修行と言うまでのことではない。
そして遍路を終えた私は、特に何も変わることはなかった。
もちろん変えようとしていたわけではないし、何かを見つけようとしていたわけではないので当たり前のことであるが。
よく、「最後までまわったら、またもう一回歩いてみたいと思うよ」と言われたが、私はもう一度まわりたいとは思わなかった。羽黒山に籠もったときは、また籠もりたいと思ったが、四国ではそうは思うことはなかった。
何人もの人の遍路を終えた感想なども聞いてみたが、けっこう変われる人はいるみたいである。
何回も自殺を試みていた人が、自殺を思いとどまったり。
偏食の激しかった人が、帰ってきてからは好き嫌いを言わなくなり何でもおいしく食べるようになったり。
本当に様々である。
私が思うに、四国を歩いたぐらいで変わることのできる人は、本当に素直で幸せな人であると思う。
言い方が悪いが、あれを修行ととれる人は今までかなり幸せに生きてきたのかもしれない。
真冬に野宿で四国を歩いていると、よく「すごい」と言われたが、私は何とも思わなかった。もちろんかなりきつかったが、時間さえかければ誰だったできることである。誰でもできるようなことはすごいことでもなんでもない。
そういえば、私が一つだけ確信したことがある。
それは、「しょせん人間は人間だ」ということである。
どこで何をしていても、人間は人間。
信仰心から四国を歩いている人もただの人間。
悪い人間もいれば、良い人間もいる。
悪い人間でも良いことをするときもあれば、良い人間が悪いことをすることもある。
人間という動物は、ある程度の足かせ的な戒律は受け入れられたとしても、しょせんは業の深い罪深い動物である。
だからもう何一つ人間には期待などしなくなった。
もとから何も期待はしていなかったが、完全に諦めがついたと言うべきか。
これはもちろん自分自身にも当てはまる。
四国の自然を感じ、有難い様々なお接待をお受けし、最後まで歩かせていただいたのだが、結果としては何も変わらない。
これを機会に、これからはまた人生と言う名の修行で徳を積んでいくしかないのだ。
これが、お大師様からいただいた最大の修行であるのかもしれない。
まあ、どちらかというと後ろ向きなことを書いてしまったが、二ヶ月もの長い期間、大きな怪我もせず歩かせていただいたことは、本当に幸せなことである。
世間の同世代の人はそんな時間もとれないだろうし、歩きたくても身体的な理由などから歩くことができない人だっている。
そんな人たちに比べれば、私はなんと幸せなのだろうか。
幸せゆえに飽くなき求めを欲しているのかもしれない。
日数にしてみれば約二ヶ月間。雨で歩かなかったり、行き帰りの日も含めたためこれだけの日数を要したのであった。
遍路を始めた理由は、ただ「なんとなく」というだけのもの。
特に何かを見つけようとか、修行をしようとしたわけではない。
ただ、四国を旅するときには「お遍路さん」という体系化された旅を実際に体験してみたかったというだけである。
遍路中は精進をしていたが、これは各札所で読経もするため、私なりの信仰における足かせとでも言うべきか。今までもよくしていたことなので、特に修行と言うまでのことではない。
そして遍路を終えた私は、特に何も変わることはなかった。
もちろん変えようとしていたわけではないし、何かを見つけようとしていたわけではないので当たり前のことであるが。
よく、「最後までまわったら、またもう一回歩いてみたいと思うよ」と言われたが、私はもう一度まわりたいとは思わなかった。羽黒山に籠もったときは、また籠もりたいと思ったが、四国ではそうは思うことはなかった。
何人もの人の遍路を終えた感想なども聞いてみたが、けっこう変われる人はいるみたいである。
何回も自殺を試みていた人が、自殺を思いとどまったり。
偏食の激しかった人が、帰ってきてからは好き嫌いを言わなくなり何でもおいしく食べるようになったり。
本当に様々である。
私が思うに、四国を歩いたぐらいで変わることのできる人は、本当に素直で幸せな人であると思う。
言い方が悪いが、あれを修行ととれる人は今までかなり幸せに生きてきたのかもしれない。
真冬に野宿で四国を歩いていると、よく「すごい」と言われたが、私は何とも思わなかった。もちろんかなりきつかったが、時間さえかければ誰だったできることである。誰でもできるようなことはすごいことでもなんでもない。
そういえば、私が一つだけ確信したことがある。
それは、「しょせん人間は人間だ」ということである。
どこで何をしていても、人間は人間。
信仰心から四国を歩いている人もただの人間。
悪い人間もいれば、良い人間もいる。
悪い人間でも良いことをするときもあれば、良い人間が悪いことをすることもある。
人間という動物は、ある程度の足かせ的な戒律は受け入れられたとしても、しょせんは業の深い罪深い動物である。
だからもう何一つ人間には期待などしなくなった。
もとから何も期待はしていなかったが、完全に諦めがついたと言うべきか。
これはもちろん自分自身にも当てはまる。
四国の自然を感じ、有難い様々なお接待をお受けし、最後まで歩かせていただいたのだが、結果としては何も変わらない。
これを機会に、これからはまた人生と言う名の修行で徳を積んでいくしかないのだ。
これが、お大師様からいただいた最大の修行であるのかもしれない。
まあ、どちらかというと後ろ向きなことを書いてしまったが、二ヶ月もの長い期間、大きな怪我もせず歩かせていただいたことは、本当に幸せなことである。
世間の同世代の人はそんな時間もとれないだろうし、歩きたくても身体的な理由などから歩くことができない人だっている。
そんな人たちに比べれば、私はなんと幸せなのだろうか。
幸せゆえに飽くなき求めを欲しているのかもしれない。
Posted by 珍玄 at
11:00
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巨木の杉と墓所
そしてその間には樹齢千年近くありそうなたくさんの杉の巨木や、戦国大名をはじめとする著名な歴史上の人物などの巨大な夥しい数の墓所が建っている。
そして江戸時代の大名などの墓の前には古い石鳥居が建てられていた。

